思い付きですが、シラス(shirasu.io)で自分が書いている番組レビューをブログにまとめます。
自分は番組のレビューと称して、自分の言いたいことや考えていることを書いている節があるので、ちゃんと形に残せば考えが見えやすくなってよいのではないかと思い企画しました。(番組の宣伝にもなるし!)
ただ、当該番組を見ていない方にとっては何が何だかわからんわ、という感じになっているもしれません。自分でも、自分の書いたレビューの文章がそれ単体で読めるクオリティのものになっているのかどうか正確には判断がついていないので、読んだ方からの反応がなにかあったらうれしいです。もしcaramelに何か反応をよこしたいという大変ありがたい方がいらっしゃったら、おたよりフォームや大塚名義のツイッターがあるので、そちらに何かメッセージを残してもらえたら大変助かります。(メッセージには何らかの形でお返事します。)
ちなみに、2022年は年間で80件以上はレビューを書いたはずなので、レビューの更新とともにブログの更新が続けられそうです。一年くらいはこの企画はやってみるつもりです。よろしくお願いします。
P.S
もしかしたら自分で文章を読み返すいい機会にもなるかもしれない、という気持ちもあり、ブログに起こすにあたって加筆修正を加えています。基本的にシラスのサイトの方のレビューはそのまま(加筆修正前の状態)にする方針です。
☆1月のレビュー5件
今回はマンガ「ジョジョの奇妙な冒険」のバトルの発明が、それまでのバトルマンガの中でどういう発明だったのかを解説する回です。一言でいうと、ルールを作って提示するやり方をマンガのなかに取り入れたことが発明だ、という内容です。
放送では実際に他作品を例に挙げてその比較で説明されていますが、例えば一つ例を取ると、ドラゴンボールに出てくる戦闘力の概念などは、数値が高ければ強いという以上の説明の道筋がなく、「これはこういうものだ」と観念的に受け取らざるを得ません。一方、ジョジョの奇妙な冒険の場合、例えばスタンドの説明では超能力が引き起こす物理的な現象を図像化することで観念的ではない具体的な現象としての異能バトルを可能にした、というのが今回のジョジョの奇妙な冒険の説明の趣旨です。また、その具体的な図像での説明があることによって「一人に一スタンド」「○○なスタンドは××なスタンドに相性がいい」などのルールを提示しそのルールの中で戦いを考える、頭脳バトルが可能になったというところもポイントです。
個人的には、今回紹介されたマンガは自分が生まれるよりも前に連載がスタートしたものばかりで、今当たり前だと思っている手法が実際には特定の人によって開発されたものだと改めて感じました。今回も、マンガの読みを新鮮にしてくれるような内容でよいです。
個人的に今回の話は、本当に創作を使ってものを考えるとはこういう考え方をすることだ、と思った内容でした。
巷では頭のよさそうな話は多くあるわけですが、そのすべてが悪いとは思いませんが、ただ、頭がよいことというのは即効性があって役に立ちがちなもので、飛びつきやすいものです。その反対に、効果が考えられていない内容、あまり急には理解ができないけども実のところ考えられている内容がこの世界にはあると思います。違う言い方では、どう使えるかはおいておいてそのことを考えること自体が重要だと思えるから考える、という内容です。
実のところ、自分は今回の「孤独のグルメ」の話は全部がわかりきっているわけではないのですが、ただ、なぜ大井さんがこの話を考えるに至ったのかはピンときました。今回の話は、大井さんからもこの説明に近い言及があるのですが、まさに後者のような「急には理解ができないけども実のところ考えられている」考え方を代表するような話だったと思います。
大井さんの話に限らず、シラスでは切れの良し悪しを気にしないがしかし、しっかり考えられているトークは多いのだとは思いますが、その中でも今回の話は特にその特徴が強い、実は大切な内容だったと思います。(個人的な意見ですが、本当に何かに対抗するという場合、今回のような語り方は即効性は弱いと思いますが、結果的に広く強く機能するとも思っています。)
今回はネット時事雑談の回。表題にある編集者うんぬんの件は放送でもさやわかさんが画面で表示しながら説明してくれていますが、実際に使ったまとめはこちら。
今回の雑談の内容的には基本的には「意図が伝わっていない意見は効果がないよ、そして、それがわかっていれば今回のような不毛な反応にはならないはずなんだけど」という話で、まあそうだなと思いながらフンフンと確認のように聞いていました。ただ、今回特によかったのは、コメントの一つとさやわかさんの応答です。
コメントで、仕事上のやりとりのなかで相手がこちらに対して善意や悪意をどのように持っているのか不安になってしまう、というような内容がありました。それに対するさやわかさんの対応はおおよそ次のようなものです。
相手がこちらに善意とか悪意があるかどうかという判断はその場での目の前の事案の判断よりも上位の価値観であって、もし相手がそのような判断を持ち込んできたり自分がそのような判断を考えてしまったときは、それは別のことで争ってしまっていると考えるとよい、まずは目の前の事案に対して取り組むとよいと思います、という内容です。
この回答はとても明瞭だと思います。つまり、考え方のミスに気が付くのが大事、ということだと思って自分は受け取りました。
実は僕も放送中、このコメントがあってさやわかさんがそれを読み上げるまで、自分もそういう状況に陥って身動きが取れなくなってしまうタイミングがあるぞ、自分ならどう考えるか、と結構気になっていたコメントでした。このさやわかさんの回答には、なるほど明晰な回答だと感心しています。
投稿日2023/01/22 20:41
今回の放送はタイトルにある通り大井さんがずっと話してきている「シン・マンガ工学」がどういう全体図を持っているかを改めて紹介する回です。今回の放送は、先回の放送でのコメントでの要望を受けての「シン・マンガ工学」の説明の回で、個人的にも内容の再整理になって助かった回でした。
今回の概要としては、実際に放送の中で大井さんがそうおっしゃってますが、このシン・マンガ工学の中心に「マンガは物語だ」という考えがあることが重要なのだ、という内容でした。自分はこの考えがしっくりきているので、他に付随する話もスムーズに理解できたのですが、この「物語」というタームがわかりづらい、という話もコメントなどで出ていて、話題としてもさらに掘り下げられています。
「物語」という言い回しが「ストーリー」などと混同されがちでわかりづらいという気持ちは自分もわかるのですが、自分の考えでは、物語とは作品から受け取る何らかの解釈だが、しかし、それを受け取った誰しもがそうと思うように作品の中に設計されていない作品の読み味の一部分のこと、と一応整理しています。が、これはたしかに言葉にするのが難しいとも思います。
少し違うことかもしれませんが、放送の中で「作者の解釈と読者の解釈が違っていて当たり前で、それでいいんだよ。」と大井さんがおっしゃっていますが、自分も全く同意で、「物語」とは何をもたらすものなのかというと、読んだ人に固有の意味を感じさせる作品の中の要素、ということになる気がします。「自分にとってこの話は関係がある」と思わせる作品が持っている要素、という感じでしょうか。
また内容とは別に、個人的には、人が現実にフィクションに対して対価を払ったりするのはこの「物語」がそれぞれの受け手に固有だと感じ取られるためだ、と思っています。(しかし、これもこれだけでは何のことを言っているのかよくわからないかもしれません。)
ただこれは個人的な考えですが、「『物語』が何か」はわかる人がわかっていればよいものではないかとも思っていて、「物語」の概要がわかりづらいこと自体はそんなに重要な問題ではないように思っています。(と書くとわからない人には不親切ですよね。)
…と、放送のレビューにかこつけて自分が物語について考えていることを書いてしまいました。ただやや強引な説明になってしまったように思いますが、実際、今回の放送や大井さんのシン・マンガ工学シリーズで「重要なのは『物語』として作品をとらえることである」ということは何度も話されていることです。
すでに理解が及んでいる人もそうでない人も、「物語」ってなに?という疑問について整理する良い機会になる放送だったと思います。
今回はゼロ年代史シリーズの2002年編。日韓ワールドカップを皮切りに、当時のインターネットの雰囲気やネットを中心とした事件が紹介され、それらがどういった当時の考え方に基づいて行われていたのかが話されています。
自分が当時の状況をあまり理解できていないこともあってコンパクトなレビューに起こすことが難しい内容ですが、簡単にいうと、政治的な関心をそうではないものとして装いながらしかし実際には政治的な事象に介入していく方法がネットの中から数をもって台頭したのがこの年だった、とまとめられると思います。吉野家オフ会や、日韓ワールドカップの反応(やフジテレビへの批判)、2ch湘南ゴミ拾いオフなど、どれをとってもその雰囲気が感じられる話でした。
また、今回の話で重要なのは、いわゆる当時の有識者がこのネットと政治とがぶつかる状況に対して肯定的な反応を示していたことだと思います。さやわかさんの今回の紹介では、当時の有識者のコメントは特にネット上の意識について認識が誤っているところがあるとし、これに対して反論を加えています。
個人的な話ですが、2002年というと当時自分は小学校2年生ですが、そのくらいの年でも当時欺瞞を感じていた「ネタに対してなにマジになってんの」という言い回しや態度への反論が加えられているので、ちょっとスッキリする内容でした。
ただ、この2002年当時にはびこったこの態度の持ち方は今になってもまだ残っているどころか、近年また復活してきているように感じます。また、過去にさかのぼれば、戦争後の転向問題などの悪い意味での歴史修正主義にも射程が伸びそうな話題で、大きく言えば今の日本の抱える問題の中で解決できずにいて皆が困っている根っこが深い社会的な問題の一角、という見方もできるかもしれません。
しかし、この「ネタに対して何マジになってんの」という態度には正面から戦いづらいなにかもあります。みなさんはそう感じませんか?