玄関先の言葉置き場

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ハミ山クリニカ「汚部屋そだちの東大生」感想―― 「山上さん」が成したこととは何か

 いきなり私事から入って恐縮だが、わたしは大学時代は学生寮で生活をした。その生活の中での空間や場所の使い方を周りの学生と比較するに、わたしはあまり衛生に気を使うとは言えない家庭で育ったらしかった。簡単に言うと、わたしは主に寮内で共同で使うコンロを汚しっぱなしにすることを、周りからよく注意されていた。その指摘をされながら、わたしは生まれて初めて、コンロを日常的に掃除する家庭が実在することを実感させられた、といえば、わたしの育った環境が伝わるだろうか。
 それはさておき、ここでとくに強調したいのは、わたしが寮での生活で、とりたてて、周りの学生からの具体的な言及があって自分の生い立ちに関心が向いたわけではない、ということだ。そうではなく、わたしは寮生活の中で、周りの人間と自分とのふるまいがあまりに違っているので、そこから逆算的に自分の生い立ちが普通と違っていることを知っていったのだった。それはつまり、環境の中で間接的に生い立ちを知らされる機会があったということであり、その間接的な機会があったことこそが、寮での共同生活のよかったところだと思うのだ。
 わたしという個人がその当事者であったことは当然わたしにとってよいことだった。だがしかしそれとは別のところで、自分の過ごした生活の中で、人と人との関わりの必ずしも直接のやりとりではない部分で、なにか生まれや育ちについて考える機会が生じていたことが、善いことだったと思う。
 そのような考え方を持っているわたしなので、本作『汚部屋そだちの東大生』を読んでいると、当人がおよび知らないところで(本人の意図とは離れた部分で)相手が救われている描き方がされている側面に、深くうなずいた。
 例えば、二人がケンカをしたことによってむしろ母親からの離別の決心が固まった、主人公の友人の山上さんと主人公の関係の描き方はもっともそれをよく表している。山上さんが主人公に対して言い放った「田島さん/結局お母さんに甘えているんだよ」という言葉は、その直前の山上さんの表情を見るに、主人公に対する善意というより、山上さん個人がもつ態度のトゲとして放たれた言葉だ。だが、そのトゲがむしろ主人公に対して反省を促し、良い結果を運んでいる。それはこの作品を読むとわかるはずだ(168ページ付近)。あえていうと、ここでは山上さんにとっての<当人がおよび知らないところで相手が救われている>形式が、主人公にとって必要な手助けになっているのだ。
 また、主人公の母親の視点から物語が描かれる数ページにわたる場面(223ページ付近)についても、主人公から母親にむけて、そのような<当人がおよび知らないところで相手が救われている>描き方がされている。以下では、その母親についての描写が持っている、この作品の見どころをわたしなりに説明してみようと思う。

 

 この作品の一つの特徴は、作品に描かれている主人公の家からの脱出の物語が、あくまで主人公の意思決定の結果として語られていることだ。例えば、いいわゆる”毒親物”として作品を派手にする方法は色々とあった―友人が家に押しかけるとか、母親がもっと分かりやすく悪であるとか―のではないかと推測するが、この作品はそうしていない。あくまで家からの脱出を描くにあたり、主人公が周りの出来事から影響を受けて、考えながら行動を修正する、という様子に絞っている。このことをもう少し別の角度から言えば、この作品は、一貫して主人公に判断を迫っていく作品なのだと言える。つまり、主人公に対して意図的に厳しく作ってある、主人公にだれも直接的な手助けをしない作品なのだ。
 その主人公に対する厳しさや手助けのなさが、なぜこの作品にとって必要だったのか。わたしなりの考えをいえば、それは、この作品の中で作者が描きたかった主人公像が、親に判断を任せているところから、自らの責任の下で物事を判断するところまで、成長していく主人公像だったためだ。もっといえば、この主人公が母親のもとを去るための条件として、親からの自立だとかの抽象的な思考の操作はそこにはなく、きわめて現実的に、自分の判断が自分に帰ってくる状況に身を置くことが必要だと、作者が考えたからではないか。
 だからこそ、例えば、本作に描かれるように、友人の指摘によって母娘関係の問題を気付かされる流れは、一時とはいえ、友人との同意ではなく決裂をもっていなければいけない。つまり主人公が変化するための条件として、主人公は一人で離別を決心する必要があるのだ。

 主人公が一人になっていく過程で、わたしが特にきれいな流れだと感じたのが、主人公が友人である山上さんとのケンカを経て、母親との関係に向き合う、一連の流れだ。最初主人公はある種山上さんとのケンカによってその山上さんとの関係の中で一人きりになっただけだった。しかし、その一人きりの状態とは、主人公にとっては、実は、親との関係にちゃんと向き合うための一人になるべき時間として働いていた、という流れになっていたのだ。
 山上さんは、一貫して「変だよ」ということを言葉をかえならがら主人公に伝えているだけで、なにかそれ以上積極的に主人公の(家族の)問題には介入しない存在だ。だが、その山上さんの踏み込まなさが、結果的に、主人公にとってもっとも必要だったはずの母親との関係への反省をうながすことになったのである。
 このように山上さんとの関係の中で、主人公は一人になることで母親に対する態度を獲得してゆく。その一方、不意に主人公にあたえられた一人きりの時間がまるで連鎖するかのように、物語の中で、母親にも一人きりの時間が訪れることになる。
 そこで描かれている母親の姿は、それまでに描かれてきた、支離滅裂な狂人のような母親像とは違い、自分の亡くなった恋人のことや娘とのこれからの生活のことを考える、寂しそうな一人の人間として描かれている。ただわたしは、ここで描かれている母親の姿の、その具体的な寂しげな姿が重要だといいたいわけではない。そうではなく、本来、依存関係にあるときであれば主人公が想像することができないはずの母親の一人きりの姿が、このシーンでわざわざ描かれていることに尊さを感じるのだ。
 あえていえば、主人公が、向き合わなくてはならないことに向き合った結果として物語の中にもたらされた出来事が、一人きりの母親の姿であったこと。そのことは、主人公の元となっている作者にとっての、なんらかの達成だったのだとわたしは考えている。現実の作者にとって、それが具体的にどんな意味をもっているのか、あるいは持っていないのかはわからない。だが、フィクション上に自分自身の分身を描くことでその問題をなぞる作者が、ただ自分の過去を整理しているだけではないことは、この母親の描き方からわかるはずだ。いわば、全く現実には起こらなかったが、しかし、ありえたはずだと思しき可能性としての母親を、作品をとおして新たに付与しているのだ。それが作者本人にとってなんらかの意味を帯びているからこそ、この作品は我々読者にとって尊く映るのではないだろうか。

 

 ところで、作者のあとがきに「今の自分があるのは『山上さん』になってくれた何人もの方々のおかげです。」と書かれている。実は、わたしは大学卒業後、しばらく経ってから実家のコンロの大掃除をすることになった。聞くところによると、そのコロンにとって十数年ぶりの掃除だったらしい。もしかすると、わたしに掃除を迫った一端には、学生寮時代の、隣人からわたしへ不服そうな目線の記憶があったのかもしれない。とすれば、わたしにとっての「山上さん」である、寮の隣人のあの渋い表情にこそ、わたしは感謝するべきなのだろう。(3146字)